焼き干し物語

『菜のはな』の料理と青森の四季
2010/11/07(日)
磯山では、焼き干しを作っている家は10軒程度だそうで、その家々により、作り方はそれぞれ
違うようです。

自分は工藤さんしか知らないので、ここでは工藤さん夫婦が作られている方法を書いていきます。


近所の漁師さんから揚がった鰯を貰いに行きます。その日によって水揚げの時間が違います。
この日は6時30分でした。

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鰯をヴァンに積み込みます。

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工藤さんの作業場に到着。2階は以前店舗兼住宅でした。今でも住めるようになっています。

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この太陽が焼き干し作りにかかせません。

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鰯を作業場へ運び込みます。

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運び込まれた鰯たち。

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2010/10/30(土)
磯山の工藤さんは現在78歳、18の時から焼き干しを作られていたそうです。

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おじいさんが漁師、所謂『ヤン衆』だったそうです。
当時はむつ湾で魚を獲るより、北海道へ行ったほうがお金になったらしく、
毎年、夏になるとおじいさんが、背中に背負った竹カゴにお金を入れて
帰ってきたそうです。

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秋にはむつ湾に大量の鰯が入り込んで来ます。ただ、まだ脂が乗っていないので
食用には向かず、使い道が無かったところに、油川より焼き干しが伝えられ、
やることが無かった漁師さんたちの絶好のサイドビジネスになったのでしょう。

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特に9月は日光が強く、気温が下がり、乾燥しているので磯山は人、物、環境の
すべてが焼き干し作りに最適で、偶然と必然が重なったように思われます。

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磯山はいわば、焼き干しの「約束の地」でした。
2010/10/27(水)
今自分の手元に「平館村史」という本があります。
この分厚い本の中に焼き干しの事が少し書かれていますが、始まりについては
矛盾した虚述がありますので、とりあえず2つとも載せてみます。

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566ページには
「焼干がはじめて製造されたのは、明治35年ころで、神奈川県から技術を導入したと
いわれている」
と、ありますが、もう一か所587ページには
「この焼干の加工は大正二年のころ、船岡の工藤友次郎によって試みられたのである。
当時彼は小廻船を運航し、油川港に立ちよりしとき、姓不詳の今吉と称するものが、
鰮の焼干を製造していた。
物好きなかれは帰村するや早速傘の骨を串として試みたが、不慣れのためはかどらず、
一人一日一箱の鰮をあましたほどであった。しかし一箱四十五銭の生鰮を製造して、
一貫目に付き、五十五銭位の利益があり、従来の煮ぼし加工とは比較にもならない
利益があった。そこで人を雇入れて盛んに製造した。
上磯で製造される焼干は、家庭の料理になくてならぬほど普及した。
特に調味料としての優秀性が料理業者に認められて以来、急速に発達し、上磯各地で
製造加工されるようになった」
と、あり、起源が異なっています。

しかし別ページにて
「イワシ類は明治の末期から漁獲されていた」
と、書かれていてそれからすぐ焼き干し作りが始まったとは考えにくく、どうやら後者の
「始まりは大正2年」
が正しいように思われます。

それにしても焼き干しの技術が神奈川から?
多分油川に伝わったものと思われますが、焼き干しは
農作物への肥料として作られていた、との説もあり、神奈川では
その為に作られ、鰹節の入手が難しい青森に来て初めて調味料として
使われ始めたのではないのでしょうか。

ここら辺は、まったくの個人的な推測です。
2010/10/24(日)
ニシン漁は江戸時代からさかんに行われていましたが、主な漁場は北海道で、
津軽半島や青森近郷の若者たちが、古くは安政時代から北海道へと出稼ぎに
行っていました。
出稼ぎがさかんになったのは明治時代からで、昭和20年代まで行われていましたが、
北海道のニシン漁が衰退すると共に出稼ぎも中止となりました。

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出稼ぎの人々を「ヤン衆」と呼び、青森、秋田、山形からの人が多かったようです。
青森では松前行きを「ヤトイに行く」といっていました。
ニシン漁は2月から5月ごろまで行われ、遠くは樺太まで行った人たちもいたようで、
平館からも多数の若者が出かけていました。

ニシン漁の歴史
http://www15.ocn.ne.jp/~rumoi-sk/harunisin.html
2010/10/23(土)
『お断り』 焼き干しの歴史、作り方について以下に書きますがあくまでも素人の
      研究(というほど大げさなものではありません)ですので、あちらこちらに不備が
      あると思います。

焼き干しの起源ははっきりとはわかりませんが、大正8年に出版された『油川町史』には
「秋季に於ける小葉鰯則ち背黒鰯の漁獲は最も多量にして鰹節代用の焼干に製し秋田、
山形、新潟の諸県に輸出するもの94,400円」
とあり、その年(大正7年)の生産価格は
米 197,652円
酒 118,000円
で、それに次ぐ3番目の産業になっていたようです。

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西田酒造の写真集『田酒を醸す』には西田酒造は明治11年創業、とありますので、
このときの「酒」の生産価格イコール西田酒造の生産価格なのかもしれません。

また、大正5年にはイタリア人ジュセップ・ファブリーが油川にオイル・サーディンの
缶詰工場を設立し、製造を開始したとのことです。
ちなみにファブリーさんは、青森市に初めてトマトを持ち込んだ人だそうです。

ファブリーさんはオイル・サーディンをつまんで西田酒造の日本酒を飲んでいたのでしょうか。

今でもファブリーさんが住んだ住宅が残っています。国道280号線沿い、西田酒造の
南側にあります。

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